映像のエキスパート!取締役 制作広報部長 仲雷太さんインタビュー

我々、編集部が江別気球工場の竣工披露式に参加する際など、最初にコンタクトを取り、それからいつもお世話になっているのが仲取締役です。イケオジでお人柄も素晴らしい方だなと感じていたのですが、「社内では、このオッサン何者?と思われているでしょうね」と仲さん。それならば、我々が仲さんについて深掘りしましょう!と、岩谷社長に初めて会った時の話や、腐れ縁だという飯塚工場長とのエピソードなどを聞かせてもらいました。

Blackmagic Cinema Cameraの第一人者

ご自身のデザイン|映像制作の会社を持つ仲さん。グラフィックデザイナーとして写真を使ったコラージュの制作や企業印刷物のデザイン、ディレクションなどを行ってきましたが、やがて世を挙げて動画の時代が到来。Web動画の制作に乗り出す中、本場海外の映像制作術や、カメラ、レンズなどの機材に関する情報をわかりやすく紹介するブログを開設したところ、これが大当たり。一躍、映像業界で有名人に。

そんな時、『札幌の大学生が風船にカメラを付けて宇宙撮影に成功した!』というニュースで岩谷社長のことを知った仲さんは、共通の知り合いを通じて岩谷社長と出会います。初めて会った時の第一印象を、「すこぶる頭の良さそうな、痩せ過ぎの青年でした」と言う仲さん。もっと肥えさせねば!との親心(?)から『肉を食いに行こう!』と食事に誘ったそうです。

岩谷社長は、ふうせん宇宙撮影で確実に宇宙を撮影し回収できる装置を完成させたものの、当時はトイカメラを使用していたため映像の画質には限界と不満がありました。そこで仲さんが “撮影部” として撮影機材の選定を担当し、ご自身の映像ブログを通じて親交のあった豪・Blackmagic社から発売されたばかりの小型シネマカメラ(映画のような高画質で撮影できるカメラ)をバルーンに搭載することを提案します。

こうして制作したのが、2014年に公開した「FUSEN UCYU PROJECT - BMPCC GOES TO SPACE - 世界初、シネマカメラでの宇宙撮影」というドキュメンタリー作品です。


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デジタルシネマカメラによって撮影された宇宙から見る美しい地球の映像は、国内外の映像業界や撮影機器メーカーの間でも大変な話題となりました。

仲さんは、その後も岩谷社長のさまざまなプロジェクトに撮影アドバイザーとして参加し、記録映像を作るなど協力を続けます。…協力というよりも、仲さん自身も宇宙の写真を撮りたい!と、同じ夢を見ていたようです。

当然、2018年6月に宮古島で行われた、あの有名な「ふうせん宇宙撮影 生物プロジェクト」にも参加しました。


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実験の成功を受けて、「次は魚じゃなくてオレを飛ばして欲しい!」とお願いしてから二年。「準備できましたよ。そろそろこちらに来てください」と呼ばれ北海道に来てみると、岩谷技研はいつのまにか岩谷社長の個人事務所から立派な企業になっていました。すごいじゃん岩谷くん!と毎月様子を見に来るうち、今度は「本腰を入れて、このまま協力して欲しい」と言われました。

「気がついたら取締役になっていて。うまくはめられました」と笑います。

「岩谷くんは合理的ですからね、それぞれの専門分野で経験の積み重ねがある、ずっと歳上のぼくらのようなオトナに脇を固めさせることの利点に気がついてしまったんでしょう」なんて、この時は言っていましたが、いつか聞いた仲さんの言葉からは、新しい経験ができることを喜んでいて、超多忙ながらも楽しんでいる様子や、岩谷社長との仲良しぶり、感謝の気持ちが伝わってくるんですよね。

「え?雷ちゃん札幌にいるの!? いいなー」

仲さんが、札幌と東京と行ったり来たりしながら忙しくしていると「最近どうしてるの? 全然連絡くれないし」と、大昔からの友人で、ちょくちょく連絡を取り合っていた飯塚さんから電話がありました。

飯塚工場長と仲さんは小中学校の同級生。高校は別々だったものの、大学時代には今度は留学先のニューヨークで再会して、80年代はずっとあちらで一緒に遊んでいたそう。その後も付かず離れず、現在までずっとお付き合いが続いているのだそうですよ。

『岩谷技研の話をしたら飯塚が「そりゃ面白そうだ!いいな〜」と言うので、ちょうど工場長のポストを探してるんだけど、助けてくれんか?って話を振って、岩谷に会わせるいい機会だ、とちょうど出かけるところだった宮古島実験に誘ったんですよ』と笑う仲さんですが、その時に大事件が起こります。実験がうまく行き、全て終了したあと遊びで乗っていた船が大波に突き上げられ、甲板に叩きつけられた衝撃で、仲さんは背骨を折ってしまいました。そのまま現地の病院に緊急入院。

いっぽうの飯塚さんはそのまま札幌の岩谷技研に出入りするようになったものの、知り合いゼロ、周囲は二回りも若い社員たち、頼みの綱の仲さんは当分帰ってこれません。不本意ながら飯塚さんを放っておくことになってしまった仲さんは、身動きもできないベットの上で心配していました。

ところが約1ヶ月後、上半身を固定するコルセットを着けてようやく札幌に戻ってみると、飯塚さんはすっかり皆と打ち解け、頼りにされる存在になっていたそうで、「すげぇなコイツ!」と舌を巻いたそうです。

以前、大手百貨店で大勢の若者を統率して動かしていた経験を活かして江別の気球工場をまとめてほしいと仲さんからオファーし、飯塚さんは単身、北海道に移住して工場長を務めています。

自分はずっと一匹狼でやってきたので、今のように組織の中で自分のパートを認識して仕事をする経験は、今さらながら学びになっている、と言う仲さん。

さて、そんな仲さんについて、岩谷社長にこっそり聞いてみたところ「出会って10年くらいになりますか。『この歳まで生きたからもういいんだ、好きなものを食べさせろ!』なんて言ってますけど、健康には気をつけてほしいです」とおっしゃっていましたよ。

※仲取締役と腐れ縁?飯塚工場長のインタビューはこちら『北海道に来て本当に良かった!飯塚工場長インタビュー

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